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台湾経済を変えた日本人  八田與一(はった よいち)の偉大なる功績

◆文:池田文夫

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烏山頭ダムを見渡せる場所に建てられた八田氏の銅像。右手の指に髪を巻き付ける癖があったため、このポーズなのだとか。

 

〜台湾訪問記〜

5月30日から、3泊4日の日程で足を運んだ台湾。訪問の目的はズバリ「ダム」を見に行くことでした。正式名称を「烏山頭ダム」といい、建設を設計・監督した日本人の水利技術者・八田與一(はった・よいち)に因んで「八田ダム」とも呼ばれています。日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きく貢献したことから、台湾の元総統・李登輝氏が講演原稿の中で『台湾の大恩人』と紹介するほどの人物。今回はその八田氏が台湾に残した功績を辿ってみたいと思います。

烏山頭ダムと三年輪作で
不毛の大地を大穀倉地帯に

今回、現地でのガイド役をつとめてくれたのは、友人を通して知り合った王正潭(おうしょうたん)先生夫妻。王氏は陸軍軍官学校副教授や桃園新屋分院長を兼任した医学博士で、心臓麻酔の大家であり、現職台湾総統の馬英九も診察している先生です。

台湾に到着し、ハイヤーで嘉南平野を走っていると、さっそく王先生がこんな話をしてくれました。

 

「外の畑を見て下さい。もともと、八田ダムの水で灌漑できる畑は5万haだけでした。そこで八田與一は『三年輪作法』を考えつきます。この農作方法は、1年目には稲を栽培し、2年目にはあまり水を必要としないサトウキビ、そして3年目には水をまったく必要としない雑穀類の栽培をするという輪作農法です。これにより15万haの耕地を灌漑することができ、米栽培、そして砂糖栽培が飛躍的に成長し、台湾南部は大穀倉地帯となり、台湾経済を大きく支えているのです」

 

烏山頭ダムの満水貯水量は1億5千万トンで、これは黒部ダムの75%に相当します。水路の全長は1万6千㎞と、万里の長城の6倍です。李登輝氏は、『八田さんの本当の大きな貢献は三年輪作だと思います』と語っております。水田は30倍に増加し、ダム完成から7年後の1937年には生産額は工事前の11倍に達し、サトウキビ類は4倍となりました。ダムの規模は東洋一でした。その業績は国民中学の『社会2・農業の発展』に詳しく記載されており、最後まで貿易が赤字だった朝鮮とは異なり、台湾が早くから黒字に転じたのは農産物のお陰であると言い切っております。

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八田與一の偉業は国民中学の教科書にも取り上げられている。「セミ・ハイドロリック・フィル工法」の図解

宿泊したのは、烏山頭湖境渡假会館(Wusanto Huching Resort hotel)で、烏山頭ダム(旧称・烏山頭貯水池/Wusanto Reservoir)のほとりに建っております。翌日は、王先生と一緒にダムの周辺を見学しました。

 

「まずはダムの一番高いところに銅像とお墓があります。八田さんの功績を記念するためにダム完成後の1931年7月に作ったものです。太平洋戦争末期、金属供出令により徴収された銅像を終戦後に嘉南の人が隆田駅の倉庫にあるのを発見し、烏山頭に持ち帰り、倉庫に隠しておきました。世情が落ち着き日本がタブーでなくなった1981年に元の位置に置かれました。後ろにある墓は43年5月8日米国潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した大洋丸の與一さんと、45年9月1日に珊瑚飛瀑に身を投げた妻の外代樹(とよき)さんの死を悼み、嘉南の人々が二人が永遠に烏山頭に眠って貰うことを願い、御影石を探し出し、日本式の墓を造って、ダムを見下ろす丘のほとりに埋葬しました」

 

墓石の表に「八田與一・外代樹之墓」とあり、裏には中華民国35年と刻まれております。文字通り台湾の土になったのです。

敗戦国となった日本が台湾から引上げた翌年の12月15日です。何と敬愛されていたのでしょう。「私たちは八田與一の恩を末代まで忘れません」。水を飲む時は井戸を掘った人に感謝するという「飲水思源」の思想に感銘を覚えました。

 

「このダムは長さ1273m、高さ56m、堰堤上の幅は9m、底の幅は303m。建築工法としては『セミ・ハイドロリック・フィル工法』と呼びます。この工法のダムはアジアでも今はここだけです。一般的にダムといえばコンクリートダムを連想しますが、この工法はダムの基礎は岩盤まで掘削し、底部中芯部に中心コンクリートのコアを造り、堰堤を築造する地点の両側に玉石、栗石、砂利、小砂、粘土の混合した土壌を盛土し、真ん中には河水を導き入れるための溝にします。その溝の河水を450馬力のジャイアントポンプを使い、両側の盛土に向かって射水するのであります。そうすると玉石はそのまま残って、栗石、砂利、小砂、粘土の順に中央部へと流され、その真ん中の部分には濁り水が流れて、粘土が中芯部のハガネ層を造り上げる仕組みなのです。この独特な工法から『八田ダム』と呼ばれております」

 

ダム見学の後は、「八田與一記念公園」に向かいます。途中に殉工碑(慰霊碑)が立っていました。

「ダム建設の工事中、取水口トンネル落盤事故等で134人が亡くなりました。慰霊碑の正面には八田さんの慰霊文があり、その他の三面には台湾人、日本人を一切差別することなく、亡くなった順番で一人一人の名前が刻まれております」

 

記念公園の敷地は5万㎡。公園内には、工事中の官舎が4棟復元されて、その中も見てきました。木造モルタル造りの平屋建てで、質素堅実な生活振りが目に浮かびます。また展示館には八田與一の生涯と貢献が紹介されております。先ほど王先生から説明を受けた「セミ・ハイドロリック・フィル工法」の図解資料や古写真も展示されておりました。

それにしても偉大な日本人がいたものだと深い感銘を受けました。

ところで、記念公園に着いてビックリしたことがあります。流れていた音楽が日本の歌謡曲、美空ひばりの「港町十三番地」だったのです。帰りにも流れていたのは同じく日本の歌謡曲。世紀の難工事といわれた黒部ダムは、高さ186mで日本一のダムですが、聞こえてきたのは、映画「黒部の太陽」の主役である石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」。きっと、嘉南の人々はこう歌うでしょう。

「與一よ今日もありがとう」    (了)

 

【メモ①】嘉南大圳(かなんたいしゅう)について

嘉義市から台南市の野は嘉南平野と呼ばれておりますが、洪水と干ばつと塩害という三重苦に喘ぐ不毛の大地でした。それを見て、八田與一のチャレンジ精神に火がついたのでしょう。緑地にすべく一大灌漑計画を立案し、総督府に提出します。

〈調査報告書の内容〉

①官田渓(かんでんけい)の上流の烏山頭にダムをつくり貯水する。

②台湾西部彰化県の濁水渓に3カ所の取水口を設け烏山頭ダムに引き込む。

③烏山嶺の山のむこうの曽文渓の水をダムに引き込むためのトンネルを貫通させる。延長3078m、トンネル高さ、幅ともに5・6m。

④ダムの大堰堤

・高さ56m・頂部延長1273m

・頂部幅9m・底部幅303m

 

嘉南平野 南北110㎞、東西71㎞に大規模な灌漑工事と排水工事を行えば干ばつが解消されると共に塩害発生域の土地改良も可能になり、15万haの農地から一躍90tの増産が可能。

山形土木課長、下村海南台湾総督府民政長官、明石元二郎台湾総督の決断により、国会で承認され、1920年(大正9年)工事が開始されます。時に八田與一、34歳。10年後の1930年(昭和5年)に完成します。

 

 

【メモ②】八田技師はなぜ成功したのか

「『台湾を愛した日本人』土木技師八田與一の生涯」の著者、古川勝三氏は、八田氏の成功について次の4点にまとめています。

 

(ア)34歳の若さで7000億円もの巨大工事がなぜできたのか?

★八田技師の才能と信念を信じる上司がいた。

(イ)なぜ、異民族から恩人として尊敬されるのか?

★考え方の中心に、いつも庶民(嘉南の農民)がいた。

(ウ)なぜ、東洋一の規模を誇る嘉南大圳は成功したのか?

★たゆまぬ研究が自信を生み、決断したことを実践した。

★良き部下を持った。

(エ)なぜ、独創的で他の人が考えつかないような発想ができたのか?

★多くの優れた師に出会い、その師から知識だけでなく物事の考え方を学んだ。

 

 

 

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